金松山敬念寺(きんしょうざん けいねんじ)小史 北信濃三水村上赤塩の敬念寺(きょうねんじ)第十三代住職の傍ら経済的な事由もあり、自坊寺役は坊守松枝に委ね、本山の重職の北陸篤信地の主な別院の輪番職を勤め活躍。大正末期故郷の信州諏訪湖畔平野村が一躍生糸産業で隆盛を極め、北信を始め北陸・東海・新潟より若年女子の流入により人口が激増し岡谷市が誕生。篤信地よりの要請もあり本山に申し出、内地開教地としての拠点・敬念寺岡谷説教所を開設。 最初は岡谷区の民家の二階を間借りし、休日を中心に法話会、行儀作法、歌唱など活動写真しか娯楽のない時代楽しい集いの場を提供した。 平安中学(現在の平安高校)を卒業した、長男直躬を岡谷駐在布教使に任じ本格的な浄土真宗の布教をするに至った。 昭和に入り人口流入は加速し、狭い土地に人口密度は高く子女の両親も岡谷に移住。葬儀や墓は因習が強く地元寺院が受け入れない閉鎖的風土に鑑み、篤信の有志が結束し説教所を寺院に昇格・設立の機運高まり、新屋敷地籍キネマ映画館付近に説教所を建立。上高井郡の廃寺照蓮寺より寺籍を譲り受け、赤塩敬念寺より御本尊阿弥陀如来を迎え名実共に浄土真宗本願寺末寺のお寺が誕生した。 住職は赤塩敬念寺三直が兼務したが、実質的には直躬が副住職として専従。院代を常時二名おき、法務並びに旺盛な布教活動を展開し、当時でも岡谷史誌に数多くの信徒を擁したと記されている。 昭和二十年から三十年代は、戦中戦後の動乱期。戦時中は住職病弱のため兵役を免れ、専ら大政翼賛会の主要メンバーとして軍事工場への講師など、戦時体制に法務と共に活躍した。敗戦後は戦争協力者としての反省の上に立って捨身して大悲伝化、人間愛の精神を以って門信徒を中心に仏道に精進し昭和四十年本堂建立を発願、昭和四十八年この地方初の近代的本堂建立、昭和五十年落慶法要を厳修した。昭和四十一年には第三代住職候補を迎え、昭和五十四年住職継職式を挙行した。 昭和五十四年、十二年間の中学教諭の職を辞し三代住職を継職。 爾来、寺院機能の活性化、伝道教化に目覚ましい活動を展開、朝七時の常朝事を中心に日曜礼拝、壮年部の結成、昭和五十六年には婦人部等の教化団体を発足させ、車の両輪として早朝連続参拝、全国各地より布教使を招待しての通年常例法話会の開設など、従来の法要・行事に新風を吹きこみ、新生敬念寺が誕生した。 墓地造成などにより門信徒の数も飛躍的に増加、壇信徒会を門信徒会に改め機構改革も進めた。 平成四年には門信徒の総力を結集し会館庫裡建設、平成十年には本堂を破風屋根に大改修するなど山内を一新した。 平成二十四年の親鸞聖人七百五十回大遠忌を迎えるにあたり記念事業として本堂の耐震補強工事・境内段差解消のためのバリアフリー工事・参拝ホールの新設などを完成させやさしい寺づくりを推し進め、平成二十二年十一月に「大遠忌敬念寺お待ち受け法要・記念事業完成慶讃法要」を厳修。以後新たな歩みを着実に進めてきた。 元号が平成から令和に代わったことを節目に、令和元年の報恩講法要を機縁に厳修された「住職継職式」をもって洋子坊守とともに第一線を退き、子息である宏真氏に法灯を引き継がれた。 平成六年から、第三世住職のもとで法務経験を積み前住職とともに寺門発展に尽力。 令和元年報恩講法要を機縁に厳修された「住職継職式」をもって、第四世敬念寺住職の法灯を引き継いだ。 |
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年表で見る敬念寺の歴史
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