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住職の虫めがねバックナンバー 

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内       容 《バックナンバー》 
 
No.40【平成28年 8月26日】


8月26日は前住職の26回目の祥月命日。本日27回忌法要を関係者相集い、本堂でお勤めをいたしました。
振り返ればこの26年の間、会館・庫裏建設、本堂破風屋根改修、参拝ホール建設、寺地拡張など休みなく突っ走って来ました。
「みほとけ」のお慈悲の中、坊守の理解と協力のもと、愛山護法の念厚い多くの門信徒のおかげであります。もとより非才浅学の身。一つのことでもなかなか思うようにならぬもの。
引き継がさせていただいた小職を、いただいたご恩に感謝しつつ、心身の健康に留意して命ある限り全うすることが与えられた使命と思うことであります。



No.39【平成28年 8月20日】


お盆の期間中にこんな人に出会い、質問を受けました。
「今年は兄弟が相次ぎなくなり、新盆のお義理も大変でした。どこか良い“おがみやさん”にでも見てもらったほうがよいのでは?」 というお話です。
70才近くまで身内に不幸がなく、有難かった期間が長かったことを棚上げにして、嘆いているのです。

16日の盂蘭盆法要でもお話ししたことですが、私共は世間の常識と言う物差しで生活しているのです。
生きていること、生きてきたことが当たり前で、命をはじめ無常な世の中に身を置いていることを、すっかり忘れて生活していることを証明しているのが実情です。
浄土真宗の蓮如上人さまは、その著「ご文章」の中で、『仏法を物差しにして”早く後生の一大事を心にかけて”』と述べられています。
このおさとしを深く味あわせていただきたいものです。



No.38【平成28年 8月13日】

暦の上では立秋(87日)が過ぎました。 「残暑お見舞い申し上げます。」
今年は残暑が厳しいとの予報です。熱中症などに注意して適度な水分補給をして、元気に乗り切りましょう。お盆です!
浄土真宗では他宗派のように、先祖供養のために帰ってきた先祖が休まれる「精霊棚」を作ったり、
「お施餓鬼」と言う法要も行いません。

なぜならば、浄土真宗の教えでは、故人はすでに浄土に往生しており、餓鬼道におちている先祖はおらないという考えであり、その期間だけ先祖を迎えて、その霊を慰めるための行事ではないからです。
先祖は慰める存在ではなく、阿弥陀様と共にお墓ではなく、お浄土に常住され照護して下さっているのであります。
先祖は慰める存在ではなく、敬いの心から、一年に一度お盆をご縁に、家族が集まって先人の遺徳に思いをいたし、報恩感謝の思いからお念仏を称え、仏法を聴聞するご縁なのです。
従って、浄土真宗ではお盆のことを「歓喜会」とも呼び、「仏恩を喜ばせていただくご縁」と考えているのです。

 

No.37【平成28年 8月 6日】

阿弥陀さまを「はかりなき光と命の仏さま」と言います。
ここでいう量りないとか、極みないという仏教の単位は、人間の及ぶ天文学的単位を超えて「劫」と言います。喩えれば160キロメートルの立方体にケシ(芥子)の種を満たし、それを三年ごとに一粒ずつを取っていき、その芥子粒を全部取り終わるほどの時間を一劫と言うそうです。
正信偈には「五劫思惟」とありますから、その五倍の長さです。
阿弥陀経にある「三千大千世界」とか「十万億土」などの単位も、ほとんど無限と言っても良いものであります。

  
 
No.36【平成28年 8月 1日】

先月28日当地も梅雨明けしました。  「暑中お見舞い申し上げます。」
今年も「敬念寺早朝連続参拝」が始まりました。 この行事は、今は忙しい、まだ若いからと言って、お寺を遠巻きにしていた壮年層に向けて始めた活動で、今ではお寺全体の行事となり、今年で37回目を迎えました。
何とか本堂にお参りし、「阿弥陀さま」の前に座ってほしいとの苦肉の策でもありました。
 「阿弥陀」とは、梵語(サンスクリット語)のアミターバ(光)・アミターユス(寿=命)という言葉を日本語にあてはめたもので、二つの言葉に共通するアミタ(阿弥陀)は無量とか無限という意味です。
何が無量かというと、光と命(寿)が無量ということです。
仏(如来)とは真理を悟った人であり、その世界(如)より来生した者、すなわち阿弥陀如来=阿弥陀仏なのであります。 

 次回はここでいう無量とか無限について考えてみます。

 
No.35【平成28年 7月24日】

お盆は「お念仏を喜ぶ機縁」であります。
それではお念仏、浄土真宗のご本尊「阿弥陀さま」についてお話ししてみましょう。
ご本尊は、「仏像」であっても、「絵像」であっても「名号」(蓮台に乗った南無阿弥陀仏と書かれた文字)であっても、「ご本尊」であります。お家のお仏壇では“広さ”の関係でご絵像が一般的ですが、いずれも正式にはご本山・西本願寺に申請して安置します。
「阿弥陀さま」は西方極楽浄土の教主です。遠い昔、法蔵菩薩は48の誓願を起こし「阿弥陀仏」となられました。そして、その本願を信じ「南無阿弥陀仏の名号」を称えれば、人は極楽浄土に往生すると説かれました。まことにありがたい仏さまであります。 

次回は、その「阿弥陀さま」の意味について考えてみます。 

 
 
 No.34【平成28年 7月17日】

お盆が関東地方と1か月も違うものですから、土地柄・宗派・お寺が違うと、風習や作法も異なるのは自然なことです。
この地方でいえば、新盆の家の玄関先に白木の灯篭をつるすことなどがそれです。新盆のお家であるとの目印にはなりますが、それがなければ「家に帰ってこない」などは、「俗信」そのものだと思います。 迎え火や送り火なども、その類だと思います。
浄土真宗の考え方は、故人はすでに「阿弥陀如来の浄土に往生」しているのであるから、お盆だからと言ってこの娑婆世界に帰ってくる必要はないのです。
それよりも、お救い下さる「阿弥陀如来に感謝」して、「念仏を喜ぶ」ことにお盆の意義があり、『先祖の「恩」に感謝』してお敬いの心でお寺や墓参りをし、「お念仏を喜ぶ機縁」にしたいものです。



 No.33【平成28年 7月 9日】
(No.32より続く)

なぜ、私を育ててくれた母親が地獄の責め苦にあっていたのでしょうか?  
二つのことが考えられます。
一つは、母が他人の子供のことを省みず自分の子だけを、我が子だけを、盲愛したこと。 もう一つは、目連自身も自分の母親だけを救うことのみにとらわれたこと。ではないでしょうか。
これは、利己的な考えを打ち破り、もっと広い世界に目を向けなさい、ということを示しています。
すなわち「十方衆生の僧を招いて供養せよ」と。
つまりお釈迦様は、自分の母親(先祖)だけでなく、すべてのものに施しをすることが大切であること、を説いているのだと思います。
この物語を通して先祖や亡き両親は勿論、お盆には、すべての命の大切さを知り、佛教の教えに耳を傾けたいものです。
 



No.32【平成28年 7月 3日】

7月13日より東京を中心に関東地方では「お盆」が始まります。
お盆とは「盂蘭盆経」の、目連尊者とその母との物語に由来しています。

目連は、ある日、神通力を使って亡き母の様子を見て驚きました。母は餓鬼の世界で苦しんでいて、変わり果てた母の姿を見て驚き、お釈迦様に救いを求めました。
「お前の母の罪は重い、7月15日修行を終えて精舎(寺)から出てくる多くの僧に、食物などを供養しなさい」と。目連はそのとおり供養を営み母が救われた、という物語に由来しているのです。(続く) 


 No.31【平成28年 6月25日】

人生順調に生きてこられたのは、たまたま自分やその周りが災難や不幸に出遇わなかっただけなのであり、自分の思いどうりにならないのが人生の実相なのだと自覚していることが大切だと思います。 一歩間違って、思いがけないことに遭遇すると立ち直れないほど落ち込むか、人が変わったように自暴自棄になったり、人の不幸につけ入る偽物の宗教や教え?に惑わされるケースが数多く見受けられます。
「順境の時」は誰でも難なく生きていきますが、「逆境の時」にこそ、その人の真価が問われます。
占い、まじないや人間の欲望を肯定するのは本物の教えではありません。
「良い友」を持つと共に「本物の教え」「ほとけさまの教え」に出遇って下さい。