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住職の虫めがねバックナンバー

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内       容 《バックナンバー》 

No.50【平成28年11月 5日
いよいよ来たる13日の日曜日が当山の報恩講となります。

各種準備会、本堂の荘厳、仏具のおみがきなど順調に準備が進みました。

今年は門信徒作品展に加え、菊づくりの趣味の会「敬香会」が中心となって多くの人がドーム菊と小菊を育てて出品されて、文字どおりお手間かかりし菊の花を献華。
菊薫る報恩講となりそうです。

 

No.49【平成28年10月28日】

11月13日(日)は当山の報恩講法要です。

今年はお念仏のお心を深くいただき、喜ばれ医療の現場でご活躍いただいておられる宮崎幸枝先生をお迎えし、「お浄土があってよかったね」の講題のもとに貴重なお話をいただきます。

一般的に医師は体の痛みはコントロールできても、心の痛みや死の不安や恐怖を取り除けないのではないかと思われますが、宮崎幸枝先生は「西本願寺医師の会」に所属され、仏教的視点で医療の現場と向き合う活動を進めておられます。

報恩講は浄土真宗をお開き下さった親鸞聖人のご恩をしのび、そのご苦労をとおして、改めて阿弥陀如来のお救いを心に深く味わう大切な仏縁となる法要です。

是非ご参拝・ご聴聞下さいますようご案内いたします。

 

No.48【平成28年10月23日】

本山:京都・西本願寺の御影堂に安置するご真影(ごしんねい)様、ご依用になられるご念珠の房の「生糸」を、今年も敬念寺から納めさせていただきます。
本日、本堂において献納式を執り行いました。
これは、当山総代・責任役員の山下幸治様が平成元年から、もう28回献納を続けております。
献納までには費用面ばかりでなく手間暇かけてのご苦労があり、頭が下がります。
一千万門徒の中のお一人であり、1万か寺の中の1か寺へのご下命は大変名誉なことです。
とりわけ專如門主の「伝灯奉告法要」の年にも当たり、誠に喜ばしく思います

 

No.47【平成28年10月15日】

地獄極楽と言うと、一昔前の古臭いお話のように聞こえますが私達は現在、一見、人間として日暮らしをしていますが、心のありのままの姿を見ると自業自得と言って、自分の過去の行為を刻々と自分が受けていく、すなわち、自分のなした行為によって”今“を作り出していく心の世界に生活をしているのです。
全てが思い通りに進み順風満帆の時は、天人(有頂天)になったり、時には良心の呵責に苛まれ、地獄の責め苦を味わい、それどころか犬・畜生にも劣る修羅の様相を呈していることは、新聞の社会面を見れば日常茶飯事である。
これを「六道の境涯を経巡る」というのである。
それに対して西方浄土は仏の国、悟りの世界である。

単なる「あの世」でなく死後の冥土でもない、「本願を信じ念仏申せば」必ず往生できる世界である。
いのち終えて往き生まれることを「往生浄土」と言う。
阿弥陀如来の浄土に生まれ、悟りの智慧をいただいてあらゆるいのちを救うという尊い働きをするのである。
11月13日は当山の「報恩講」です。当日、医師の宮崎幸枝先生による「お浄土があってよかったね」のお話があります。
お浄土の有無をお聞きする絶好の機会です。 聴講を歓迎いたします。 

 
No.46【平成28年10月 9日】


現在は人として生まれている私達ですが、記憶にはありませんが、今よりはるか昔から生まれたり死に変わりして、生死を繰り返し続けてきたのです
苦しみ、悩み、迷いが尽きることのない六道と言う世界を輪廻(りんね)してきたお互いです
六道輪廻とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の6つをさし、あたかも車輪がグルグル廻りつずけるように生まれては死を迎えまた、生まれ死んでいくことを繰り返し続けることです。
私達は今までどんな世界に生を受け生活してきたのでしょうか?(続)。



No.45【平成28年10月 2日】


秋のお彼岸も終わり、早や10月の声を聞きました。
今年から2~3回、皆様を「西方極楽浄土」にご案内いたしましょう。
「悪い事をしたら地獄に落ちるよ」と、幼いころ大人からこんな話を聞かれた方は多いと思いますが、現在このような話を子供にする大人はどれ位あるでしょうか。
そのことに比例してか、連日のように報道される、人間としてあるまじき悲惨な事件が多くなっているような気がいたします。
怖さを知らぬ、恐ろしさを知らぬ。その行為が自分にとっていや、自分だけでなく多くの人を、時間を超えて悪影響をもたらしっていることを・・・・・。
科学万能だと言われる今日、「地獄がある」「極楽がある」と聞いても、「昔の絵本」くらいで信じられぬ、と思う人がほとんどだと思います。
しかし、「科学」と「仏教」は相反するものではありません。
科学によってもたらされる恩恵を数多くうけているとは言え、あくまでも、それはこの世限りのもの、
それに対して「仏教」は、過去・現在・未来に通ずる普遍のみ教えなのです。(続)
 


 

No.44【平成28年 9月25日】

暑さ寒さも彼岸までとはよく申したものです。朝晩は肌寒さを感じます。
昨晩、50歳の方のお通夜にお参りしてきました。
兵庫の東井義雄先生の詩「落とせばこわれる茶碗」を、心の底から味あわせて戴きました。 
遺体の前で「念仏往生即真宗」。浄土の世界からの呼び声が心に響きました。
長寿社会はともすると「死」を忘れさせる今日、死を忘れては「生」がぼやけて見えます。
人生の生き方は、無常の足音を聞くことによってのみ開かれる世界だと感じました。

「落とせばこわれる茶碗。今、すぐにでもこわれるいのち、プラスチックでないことが、ただ事でなく、ありがたい。」

 

No.43【平成28年 9月16日】

季節の変わり目に仏教行事があることは有難いことです。
9月22日は秋のお彼岸の中日です。
「彼岸」は、わが国で千年以上の歴史を持つ「仏教週間」です。
法句経に「人々は多いが彼の岸に達する人は少ない。他の多くの人はこなたの岸の上でさまよっている。」と説かれています。
お彼岸の期間は、秋分の日をはさんで前後7日間です。その中で昼の長さと夜の長さが同じ日、仏教のどちらにも偏らない日・中道、それがお彼岸の中日です。
お釈迦様の時代、修行と言うと苦行を意味していましたが、苦行に頼っては悟ることが出来ない、そう考えたお釈迦様は別の道、極端を避け、偏らない心の持ち方、生き方、中道の教えを示されました。
普段忙しさにまぎれ、み教えと疎遠になっている者が、せめてこの最も気候のよい時季に仏縁を深めよと残してくれた仏教行事ですので、“秋分の日”でなく、彼岸本来の趣旨を大切にしたいものです。

 
 
No.42【平成28年 9月11日】


葬儀で送った大切な人は、亡くなったらそれでおしまいでしょうか。
確かに「人間」としての生は終わりです。しかし、故人は、今、心の世界である浄土仏の世界、悟りの世界へ往き生(往生)まれ尊い仏様となられたのです    
その仏様が何を願われているかを、聞かせていただくことが大事であります。
悲しみを縁として、「いただいたいのち・いただいているいのち」に感謝して、命ある限り、この人生を強く明るく生きていくことが大切だと思います。
故人の遺影や位牌に手を合わせるだけでなく、阿弥陀様に手を合わせ、自分が仏法に心を合わせたいものです。



No.41【平成28年 9月 4日】

このところ気になることがあります。
「故人の遺志で葬儀をしない。」とか、「永眠しました。謹んでご通知申し上げます。」と言う新聞広告が目立ちます。
業者のほうも相乗りする形で、「火葬のみのセットも用意しました。」とか、「家族葬〇〇コース」などを呼び掛ける具合です。
葬儀は亡くなった人のための葬儀と思っている人は、「とりあえず葬儀の時だけお寺さんをお願いして、葬儀が済めば用がない。」と考えている人が、都会だけでなく多くなっている傾向だと言います。
仏教のお葬式は単なる形のみの儀礼・その場限りのものではありません
葬儀で見送った人は、亡くなって、おしまいではありません。(続)