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住職の虫めがねバックナンバー

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内       容 《バックナンバー》

No.70【平成29年 4月 2日】

昨年4月10日、東京で難病のため31歳で亡くなったお嬢さんの1周忌法要が、昨日本堂で営まれました。
ご両親はもとより参列者も未だ別離の悲しみが癒えない様子でした。
一人の人の死は悲しい・・・しかし、残された者が、そのことから何も学ばず、何も新しく生み出せないとすれば、それはもっと悲しい出来事となります。
思わず法要での法話にも力が入りました。

 

No.69【平成29年 3月26日】

あす、春のお彼岸が終わろうとする22日。
群馬県のスキー場で、スノーボードに興じていたご門徒の31歳の娘さんが雪崩に巻き込まれ亡くなられました。
昨晩は悲しみの中に通夜、今日は本堂で葬儀が営まれます。
立場上、涙をこらえながらの読経はつらいものです。
誰もが命あるものは、死があることを知っています。しかし近親の死に出会うとき、それは何の力にもなりません。
どうすることもできない、また故人にどうしてやることもできない悲しみの中に時間が過ぎていきます。ご両親や兄弟姉妹の胸中は張り裂けるようで、いたたまりません。
この悲しみを、悲しみの身に終わらせず、亡き人をご縁に私たちに無言ではありますが問いかけている声を聞かせていただき、その問いを無にしない生き方をいたしましょう、とお話しするのがやっとでした。

 

No.68【平成29年 3月19日】

人間の体の中で一番横着なものは、筋肉と骨格を形成する骨だそうです。
使わなくなれば日ごとに衰えるそうです。その代表的なものは、頭を使う、脳を使うことでありそれを怠ると脳は委縮し、やがては認知症の遠因となるそうです。
皆さんは佐藤愛子さんをご存知でしょうか。彼女は、読めば元気が出る痛快エツセイ「90才。何がめでたい」とか「上機嫌の本」を出版して、今人気者の作家です。
大正12年生まれですから94歳のおばあちゃんです。
週刊誌の「女性セブン」から連載物を依頼され、苦労して続けている中に脳細胞の錆が少しずつなくなり、書く力が戻ってきたと言います。
そして、「“女性セブン”さまありがとうございます。」とコメントされています。
私も「住職の虫めがね」を綴って早68回を迎えましたが、佐藤さんにあやかるにはまだ相当の年月が必要ですね。  

 

No.67【平成29年 3月10日】


3.11
を前に今週は新聞、ラジオ、テレビの歌コンまでが東日本大震災6年の節目に当たる特番や特集記事で一杯でした。
法事の刻みで言えば回忌となります。全国民が、この大惨事を終生「忘れない」ことが大切です。
被災地の復興も場所によるとまだ道半ば、6割程度の所もあり、福島原発の廃炉作業にいたっては「登山口」の状況だといいます。
被災者の苦悩は半端ではありません。岩手県大槌町の白銀さん(61才)は、母親・妻・長女の3人が未だ行方不明で死亡届も出せず、震災以来酒一滴も飲まず、諦めきれない毎日で、「あの日を経験した人間として“命を全うしなきゃ”と苦しい気持ちに折り合いをつけている」と言っておられます。
親鸞様のお言葉に「浄土にてかならずかならず待ちまいらせ候うべし」とあります。
再び会うことのできる世界・浄土があることをお知らせしたいと思います。  

No.66【平成29年 3月 5日】

誰でも人生には最期があります。

立場上、臨終のお姿に接する機会が多くあります。
例外を除くと一様にお顔は力みが取れ、しわもなくなり誠に穏やかな顔立ちとなります。これこそ「おまかせ」の姿で、経典の中にある「大悲の願船乗托して、光明の航海に浮かび四徳の風を受け煩悩の波を転じ」た美しい姿で、思わず合掌してしまいます。
浮世のすべてを置いて旅立っていく姿は、悲しさより力みのとれた”仏様“のお姿です。
今まで自分中心に回っていた回転が一瞬にして“他力”の妙有の中に摂め取られ仏様の世界にお入りになられたようです。
生々しいお話となりましたが、生身の間に自我の殻を打ち破り、身と心を任せられるような、「もののみになる」人生を歩みたいものです。 

 

No.65【平成29年 2月26日】

「他力」とは、よく海にたとえられます。正信偈にも本願海、群生海、大宝海、大智海と・・・。
山で育ち川しかなかった小さいころ、泳ぐことが苦手で足をバタバタさせると体が沈んでいくようで恐ろしい気がしたものです。しかし水の「浮力」を信じて身を任せると泳ぐことができたのです。即ち、泳ぐのは自分自身ですが、それを支えていたものに気付くと楽に泳げるようになりました。
自分の力だけで泳ごうともがけばもがくほど、沈み溺れてしまいます。
それはちょうどの浮力のように、私を支えて下さる力、それを仏様の力・「他力」と言うのであり、その仏様の願いを「他力本願」と言うのです。
これは、仏教特に浄土真宗の信心の要となる大切な言葉です。決して他人任せの意味でないことを強調したいと思います。

 

No.64【平成29年 2月16日】


仏様の働きが(光明)いのち(寿命)となって働いていることを、浄土真宗では「他力の働き」「他力本願」と言うのであります。
他力と言う字面から言うと、世間一般には「自分の努力の放棄」「人の力をあてにする」「人の言うことを鵜呑みにする」と言うような意味に誤解されています。
しかし、仏教・浄土真宗でいう他力・他力本願とは、仏様の働き、「迷いの中にいる私たちを何とか目覚めさせたい、悟らせたい」と言う願いを意味します。
決して努力せずに人任せにすることでも、棚からぼた餅を願うと言う意味でもありません。


No.63【平成29年 2月10日】


「光といのち極みなきあみだほとけをおがまなん」と、正信偈の冒頭の一句に「帰命無量壽如来 南無不可思議光」とあります。
すなわち、『「南無阿弥陀仏」と言うお念仏は真如の仏様を私の人生の拠り所として仰ぎます。という意味なのです。
お念仏には阿弥陀如来の、私を悟らせたい、迷いから救いたいと言う願いと仏様の行が凝縮され込められています。従って、私が称えるお念仏は「阿弥陀様の願いが私に届きました。有難うございます。」と言うご恩報謝・ご報謝のお心で発せられる称名念仏なのです。


 No.62【平成29年 2月 5日】

お念仏は呪文やおまじないの言葉ではありません。
南無阿弥陀仏は仏様との交信の言葉です。人から呼ばれると「ハイ」と返事するように、仏様から私を救いたいというお心を受け取ったら、私は明るく返事(お念仏)をするのです。
「南無阿弥陀仏」を分解して説明しますと、「南無」は“帰依するおまかせする“と言う意味で私の人生の拠り所と仰ぐことを言います。
「阿弥陀」は“量ることのできない”という意味で“量ることのできないひかりといのち極みない働き”を指します。「仏」“如来”と同じ意味で“真実・真如から来たれる者”を言います。“真如”とはこの世界の真実、時間と空間を超えた道理・悟りであります。

 
No.61【平成29年 1月29日】

念仏中迎春】 新年となり早や1か月となろうとしております。
若者ばかりでなく一般的に現代人の「念仏観」は、呪文やおまじないなど願い事の時やお葬式の時の言葉位で、お年寄りの称えるものと思われがちであります。
葬儀や法事の際「お念仏を称えましょう」と申しても、気恥ずかしそうに機械的に称えるだけです。
それはお念仏の心を理解しないことで、無理からぬことであります。

「お念仏」すなわち「南無阿弥陀仏」の心や働きについて、次回少しお話ししてみましょう。